米国病院前救護(EMS)の歴史
現代では当たり前となった高度な病院前救護(Emergency Medical Services, EMS)ですが、その歴史は意外にも浅く、数々のマイルストーンを経て発展してきました。この記事では、米国におけるEMSが、単なる「搬送」から「医療」へと進化を遂げた歴史を、重要な出来事とともに振り返ります。
1960年代以前 – 「搬送」がすべてだった時代
1960年代以前、米国の救急医療体制は非常に未熟でした ¹。当時、救急車の業務は主に葬儀社が霊柩車を代用して行っており ¹、乗員には医療知識がほとんどなく ²、唯一の目的は患者を迅速に病院へ「搬送」することでした ¹。患者の搬送が主な焦点であり、そのサービス内容や質は州や地域によって大きく異なっていました ¹。
▲1960年代に使われていた霊柩車兼用の救急車
1966年 – 改革の狼煙「The White Paper」
EMSの歴史を語る上で欠かせないのが、1966年に米国科学アカデミー(National Academy of Sciences)が発表した**”Accidental Death and Disability: The Neglected Disease of Modern Society”、通称「The White Paper」**です ¹, ⁴。この報告書は、米国内の救急医療体制の不備を厳しく指摘し ⁴、救急車が不適切な装備であり、訓練されていない乗務員によって運用されている実態を明らかにしました ⁴。交通事故死傷者の多さを「現代社会が見過ごしてきた病」と断じ、EMSシステム改革の大きな原動力となりました ⁴。
▲EMS改革のきっかけとなった「The White Paper」
政府の介入と基準の確立
「The White Paper」の提言を受け、EMSは「搬送」から「緊急医療サービス」へと焦点が移り始めます ¹, ²。1966年に設立された**米国運輸省(DOT)**は ¹、高速道路安全法(National Highway Safety Act)に基づき、救急車の設計・建設に関する基準や、救急隊員の標準化された訓練要件を導入しました ¹。1969年には、全国的に認知されたEMT-A(Emergency Medical Technician-Ambulance)の統一カリキュラムが初めて発行され ²、病院前救護の質の向上に向けた基盤が築かれました ¹。
Advanced Life Support(ALS)の夜明け
真の病院前医療、すなわち高度な救命処置(ALS)への進化は、複数の地域で同時期に始まりました。
1. フリーダムハウス救急サービス(ピッツバーグ)
1967年、ペンシルベニア州ピッツバーグで、公民権運動の一環として**「フリーダムハウス救急サービス(Freedom House Ambulance Service)」が設立されました ⁵。これは、全米初のEMTサービスであり、「CPRの父」として知られるピーター・サファー医師**の指導のもと、主にアフリカ系アメリカ人の隊員が高度な訓練を受け、質の高い救護を提供しました ⁵。彼らの画期的な取り組みは、今日のパラメディック訓練の基礎となりました ⁵。
▲初期の救急隊員訓練の様子(フリーダムハウス設立初期の訓練を想起させる)
2. テレメトリーとパラメディックの誕生(マイアミ)
フロリダ州マイアミでは、心臓外科医であったユージン・ネーゲル医師(Dr. Eugene Nagel)が主導しました。彼は、現場から病院へ心電図を無線伝送する「テレメトリー」を開発し ⁶、1967年頃には医師の指示(メディカルコントロール)のもとで、消防隊員が除細動、静脈路確保、気管内挿管などの侵襲的処置を行う訓練を開始しました ⁶。これにより、マイアミは全米で最も早くAdvanced Life Support(ALS)を提供したパイオニアの一つとなり、ネーゲル医師は「パラメディックの父」として知られています。
EMSの普及と国民の認識 – テレビドラマ「Emergency!」
1972年に放送が始まったテレビドラマ**「Emergency!(邦題:エマージェンシー!)」**は、EMSの発展に計り知れない影響を与えました ²。このドラマは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡消防局のパラメディックの活躍を鮮やかに描き ²、国民のEMSに対する認知度と期待を飛躍的に高めました ¹。当時、全国でわずか12ユニットしかなかったメディックユニットが ¹、この番組を通じて爆発的に普及する社会現象を巻き起こしました。
▲EMSの存在を全米に知らしめたテレビドラマ「Emergency!」
外傷救護の進化 – 「The Golden Hour」
外傷患者の救命率向上に革命をもたらしたのが、メリーランド州の外科医**R・アダムス・カウリー医師(Dr. R Adams Cowley)が提唱した「The Golden Hour(黄金の一時間)」**の概念です。これは「重傷外傷患者の生死は、受傷から1時間以内の適切な初期治療にかかっている」という考え方であり、迅速な現場活動と高度医療機関への搬送の重要性を明確にしました。この概念は、現代のトラウマセンターシステムの基礎となっています。
EMSのシンボル – 「Star of Life」
救急車や救急隊員の制服でおなじみの青い星のマークは**「Star of Life」と呼ばれ、EMSのシンボルです ³。このシンボルは、1973年に米国高速道路交通安全局(NHTSA)のレオ・R・シュワルツ(Leo R. Schwartz)**によってデザインされました ³。中央にはギリシャ神話の医療の神アスクレピオスの杖(蛇が巻き付いた杖)が描かれ、癒しと医学を表しています ³。
また、6つの角は、EMSが担うべき以下の6つの重要な機能を表しています ³。
- 覚知 (Detection)
- 通報 (Reporting)
- 応答 (Response)
- 現場手当 (On-Scene Care)
- 搬送中手当 (Care in Transit)
- 医療機関への引き渡し (Transfer to Definitive Care)

▲EMSの6つの機能を表す「Star of Life」
まとめ
米国のEMSは、多くの先駆者たちの情熱と努力、そして社会の要請によって、わずか数十年の間に劇的な進化を遂げました。単なる搬送手段から、高度な医療を提供するシステムへと発展した歴史を知ることは、現代の私たちがその恩恵を当然のことと思わず、感謝と責任をもって日々の業務に臨む上で非常に重要です。
引用・参考文献
- EMS History — EMS Memorial. (n.d.). Retrieved from https://www.emsmemorial.org/ems-history
- Timeline of Modern American EMS – HMP Global Learning Network. (n.d.). Retrieved from https://www.hmpgloballearningnetwork.com/site/emsworld/article/219388/timeline-modern-american-ems
- Star of Life – EMS.gov. (n.d.). Retrieved from https://www.ems.gov/what-is-ems/star-of-life
- Accidental Death and Disability: The Neglected Disease of Modern Society – Wikipedia. (n.d.). Retrieved from https://en.wikipedia.org/wiki/Accidental_Death_and_Disability:_The_Neglected_Disease_of_Modern_Society
- Freedom House Ambulance Service – Wikipedia. (n.d.). Retrieved from https://en.wikipedia.org/wiki/Freedom_House_Ambulance_Service
- Paramedics in the United States – Wikipedia. (n.d.). Retrieved from https://en.wikipedia.org/wiki/Paramedics_in_the_United_States